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観た映画:哭声/コクソン

日々がまーごめ(「まーごめ」とは、全ての言葉に代用できる単語です)だったので気分が沈んでいたのですが、そういうときは暗い映画を観ています。今回は「哭声/コクソン」をみました。(写真は一切関係ない、山中湖から見えた南アルプスです)


「今日はちょっと好きな作品や動画を楽しめそうにないな〜」という気分のとき、暗い映画は暗いまま寄り添ってくれるのでおすすめです。

最終的に気分が回復しなくても、「自分が落ち込んでるのはこんな映画を見たせいだ」ということにできるし。

向き不向きはあるかもしれませんが……


そして哭声ですが、見たらかなり気分が回復しました。

こわい映画は大抵、自分の些細なまーごめどころではないことがたくさん起きるので最終的に元気が出ます。

いっぱい人が死ぬところを見たので生きる活力が湧いたのかもしれません。


最近大河を見てるおかげで國村隼さんの名前を覚えました。

この映画では、國村さん演じる日本人、いわば余所者の存在が村人に色々と猜疑心を与えてしまうのですが、「迫害される外国人」みたいな単純な話じゃなかったのがこの作品の奥深いところなんだろな〜と思います。

たぶん彼は本当に罪を犯したか何かで普通の生活ができなくなり、そこを祈祷師につけ込まれるとかして共生関係になったんだと思っています。

わかりやすい敵をつくることで祈祷師は村人にとって頼れる存在になり、村人の心を内と外から上手にコントロールしていたんだと思っているのですが、あんまり厳密な考察をしていないので自分にはまだよくわかってません。

「不器用で弱い外国人」よりかはマシと思って恐れられる方を選んだとか(人里に降りて買い物してるとき本当に生き辛そうだった)、それか本当に信仰上の理由で山奥の生活をしているとか、なんか色々考えてしまいますね。


彼は自嘲気味に自分の運命を受け入れているからか、「(自分は)悪魔といわれれば悪魔だ」と居直れるけど、崖下に隠れて泣いてしまうシーンのように、時々ふと人間らしい感情が戻ってきては慟哭しているんだろうと思い、何ともいえず切なかったです。

タイトルの「哭声/コクソン」は、あの時に彼が上げた谷の城(コクソン)に響く泣き声のことなんだろうと勝手に思っています。

本当はもっと声を上げて泣きたかっただろうに、飲み込むしかなかった声でもあります。


この映画は、最初は常識的な思考をしていた主人公も徐々に狂気の深みにはまっていくので、主人公も含めていよいよ作中の誰も信用できなくなっていきます。

まあ作中の誰も正しくないと思うのですが、主人公を惑わせてくる人たち(主に日本人、祈祷師、若い女の三人)も、ふとしたときに人間らしい焦りや絶望を見せるのがなんか惹かれました。


余所者役が自分と同じ日本人じゃなかったらもっと違う感想になってただろうとも思います。

フラットな目線で見られるのが一番良いのでしょうけど、フラットな目線なんてものはなく、どうあがいても人間は先入観とか思い込みからは切り離せないのだというのがこの映画の肝なような気もします。


面白い映画を観る良い機会になるので、たまには落ち込むのも良いですね。

最近はママタルトのラジオまーちゃんを聴き始めました。大変落ち着きます。


終わりです。